As I Like It

「好きなことを好きなだけ」をモットーに好きなものについて好き勝手書くブログ。

11/18 (土) 『終わりよければすべてよし』/『尺には尺を』@新国立劇場

※今回の投稿で引用する戯曲の台詞は、舞台で使用された翻訳版とは異なるものです。
  台詞回しに実際の上演台本との差異が見られますこと、ご了承ください。



シェイクスピアの問題劇の交互上演】

 珍しい取り組みだなと思ったら、実際かつて例を見ない試みらしい。私はシェイクスピア作品の中でも特に問題劇が好きなので、この演目にはかなりときめいた。
 迷わずチケットを取ろうと思ったものの、気付くのが遅かったこともあり、スケジュールを組んでようやく見に行けたのが千秋楽前日のこの日。

 会場に着くと、流石に千秋楽前(厳密には『尺には尺を』はこの日が千秋楽)だけあって、リピーターと思しき人が多かった。
 私が取ったのはB席のチケットだったが、ドレスアップしたご婦人や紳士、大学生と思しき若い人もちらほら。自分も大学時代、『ヘンリー四世』の観劇の為に訪れた、あの時が初めての新国立劇場だった。今回の演出は奇しくもあの時と同じ鵜山 仁氏によるもの。
 まずは昼公演の『終わりよければすべてよし』から観劇。大学時代に一度戯曲を読んだことがあり、それ以来読んでいなかったので、今回の公演前におさらいをして臨んだ。

『終わりよければすべてよし』(成立年:1602-3 ※パンフレット調べ)

あらすじ

 ルシヨン伯爵夫人には一人息子バートラムがいた。彼はフランス王に召しだされ、故郷を後に、パリへと向かう。だが王は不治の病に蝕まれ、命は長くないと思われていた。
 もう一人、伯爵夫人の元には侍女として育てていたヘレナという娘がいて、その父は、先ごろ他界した高名な医師だった。彼はヘレナに、万病に効く薬の処方箋を残していた。そしてヘレナは、実は密かに、身分違いのバートラムのことを慕い、妻になりたいと願っていた。
 その想いを知った伯爵夫人は、ヘレナにバートラムを追ってパリへ向かうことを許す。パリに到着したヘレナは王に謁見し、亡父から託された薬で王の病を見事に治してみせる。王は感謝の印として、ヘレナに望みのものを褒美として与える約束をする。ヘレナはバートラムとの結婚を望むが、彼はそれを拒否し、自ら志願して、逃げるように戦地フィレンツェへ赴いてしまう。残された手紙には「私を父親とする子供を産めば、私を夫と呼ぶがいい。だがその時は決して来ないだろう。」と認められていた。
 ヘレナは単身、バートラムを追ってフィレンツェへと旅立つ。愛する彼と結ばれるために。
(公式サイトhttps://www.nntt.jac.go.jp/play/shakespeare-dark-comedy/より引用)

感想

 めちゃくちゃ面白かった!シェイクスピアは見るたびに思うが、脚本や展開が本当に面白い。
 時代設定は仕方がないとはいえ確かに古い。けれども、設定だったり展開だったりキャラクターは、今見ると「え!そうなるの!?」と思わされるもので、一周回って新鮮に感じられる。

 特にこの『終わりよければすべてよし』を含めた問題劇は特別そういった側面が強い。
シェイクスピアはゲームチェンジャーとしての側面が強すぎて、有名な戯曲であればあるほど今見ると王道すぎる展開と感じてしまうこともしばしばある。
けれども問題劇は、さながら“問題”とついているだけあって、登場人物も物語の展開もなかなか癖があり、一筋縄ではいかない。
演劇の古典という情報だけを仕入れて、この演目を初めて見た人は休憩前までの展開を見て、「いやこれ、どうやって解決するん!?」て唖然としたんじゃないかと思う。

 一応「喜劇」のジャンルに分けられているだけあって、最後は大団円で終わるものの、演劇が終わった後・登場人物たちのその後を考えるとどう考えても手放しでハッピーエンドとは言い難い。
だからこその『終わりよければすべてよし』のタイトルというか、最後に役者が役から降りて観客に語り掛ける場面は、「皆さんも難しいことは考えず一旦は拍手で終わらせましょう!」とでも言いたげな、苦肉の策のように感じられる。


☆登場人物について

 上で終わり方について取り上げたが、そこに至るまでの過程もやっぱり変だ。登場人物それぞれに眉を顰めたくなるような部分があって、人間性を手放しに賞賛できない。


①推しと結婚した女

 作中で絶賛されているヘレナですら、今の私たちの価値観からすると、「とはいえそもそもの元凶はこの人の我儘だもんな…」というモヤモヤが拭えない。
相手の気持ちも考えずに無理やり結婚させて何が嬉しいんだと思わなくもないが、そのあたりは時代が違う部分もあるので、結婚さえしてしまうばこっちのもの、という意識もあるのかなと思う。

 とはいえ、あんな無理やりなやり方をしている以上、彼女を退けたバートラムについても「無理やり好きでもない人と結婚させられるのはそりゃ嫌だろ…」とわずかながら同情の目で見てしまう。
しかもバートラムのヘレナに対する言い様はあまりにも酷い。(「貧乏医師の娘がわたくしの妻に!…あの女をさげすまずにはいられません!」(二幕三場)等とのたまっている)
ヒロインにとっての王子様でありながら劇中ではしっかり性格の悪い嫌な奴として描かれており、だからこそ最後二人が正式に夫婦として結ばれることになっても、果たしてこれが幸せな結婚と言えるのか、とどうしても考えてしまう。


②今見れば炎上待ったなしの治世者

 そしておそらく今回の鵜山演出を見た誰もが、「フランス王酷くない!?」と一瞬でも義憤に駆られたんじゃないかと思う。
ヘレナは王の病気を治す見返りとして「王の家来の一人と結婚させてほしい」とお願いをする。無事完治した王はヘレナが指名したバートラムに結婚を命じるが、頑として拒否をする。
怒った王はバートラムを足蹴にして、こう言い放つ。

王     お前の名誉をどこへ植えつけようと、
      わしの気持しだいであることを知らぬのか。軽蔑をおさえて、
      お前のためを思うわしの意思にしたがえ。
      その侮蔑がとおるなどと思ってはならぬ。
      お前の運命の決定はわしにゆだねられていることを思い、ただちに服従せよ。
      そうするのがお前の義務であり、またわしにはそれを要求する権力があるのだ。
       (中略)
      わが報復と憎しみが、
      正義の名において、仮借なくそちの身に降り注ぐであろう。
      さあ、返答しろ。

バートラム おゆるしねがいます、陛下。
      好悪は申さず、陛下のお目がねどおりにいたしますゆえ。
     (二幕三場、工藤昭雄訳)

 この時代は王権が今とは比べ物にならないほど強く、だからこそ、上の台詞もそれほどおかしなものではなかったのではないかと思われる。
とはいえ、今の私たちがこれを聞けば、その響きの露骨さと強さに、どうしてもたじろいでしまう。
ここで権力を殊更に主張した台詞は率直かつ重く、だからこそヘレナに対し身分が低いと蔑むバートラムに対してすら、憐憫の情を覚えてしまう。


③メタ視点ヒール

 権力者の持つ内なる精神性を鋭く描いたかと思えば、シェイクスピアはヒール役を単なる悪者としてではなく一人の人間として描くこともできる。
『終わりよければ~』に登場するバートラムのコバンザメキャラのぺーローレスは、口先の上手いほら吹き野郎で、陰では悪口三昧のどうしようもない野郎として描かれている。
 最後、遂に彼の化けの皮が剥がれて、誰からも見放され乞食にまで身を落とさんとする時、シェイクスピアはぺーローレスにこんな台詞を言わせている

 ぺーローレス …ありのままの自分でいれば、生きていくことはできるだろう。
        自分がほら吹きであることを知っているやつは、気をつけたほうがいい。
        どんなほら吹きも、いずれは、ばかの正体があらわれるからだ。
        (中略)ぺーローレスよ、恥をかいてもぬくぬくと生きよ。
        ばかにされたら、それを手だてに栄えろ。
        生きているかぎり、どんな人間にも居場所があり、生活の道がある。
        彼らについて行こう。
       (四幕三場、工藤昭雄訳)

 ここまで徹底的に「人を堕落させる腐ったミカン」として描かれてきたぺーローレスだが、何もかもを失い、通常であれば生きる手立ても希望も見失いそうになる絶望の局面で、シェイクスピアは生きていれば希望がある、と憎まれ役の口を借りて観客に説く。

 この後のシーンでぺーローレスは、かつて彼の人間性を最初に見抜いて批判した大臣・ラフューと再会する。
そこで大臣は「お前は阿呆でもあり悪党でもあるが、食わさないわけにはいくまい。」(四幕二場)と言って、彼に恵みを与える。
大臣の人情深さを感じるとともに、上記のぺーローレスの生に対するスピーチが、ただの言葉として終わらず実感を伴った希望として舞台で体現された瞬間でもある。

 ぺーローレスはコメディタッチの悪役で、ここまで観客は彼の発言や言動に散々笑わされてきた。
そんなヒール役にあえて誰しもが共感しうる生の絶望と希望を表現させるところに、シェイクスピアの人間に対する俯瞰した眼差しが表れている。


☆タイトルの伏線回収と喜劇としての演出の意義

 様々な人物が問題を抱え、その終わり方すら不協和音のように釈然としない響きを残す『終わりよければすべてよし』。
鵜山演出では、ぎこちない「めでたしめでたし」へ向かって積み上げられていく、紆余曲折における違和感を、役者の台詞外の演技や演出で表現していた

 例を挙げると、フランス王がバートラムを足蹴にするといった動きはシェイクスピアの戯曲には描かれていない。
(そもそもシェイクスピアの戯曲には役者の動きの演出は殆ど書かれておらず、大半は台詞と最低限の出入りの記載で構成されている。)
ここで病気から快復した王がバートラムに暴力を奮うことで、フランス王の台詞の苛烈さがより一層際立つ形となっている。

 また、ぺーローレスの台詞の場面では、暗めの照明の中、彼一人にスポットを当て、その台詞が訴えかけるものを強調していた。
生きてさえいれば道は開けると説く彼の、情けなくも毅然とした姿に、観客は同情以上のものを感じ取ったに違いない。

 鵜山演出ではこのように、問題劇そのものが持つズレや軋みの数々が、大げさ・やりすぎではない形で際立つよう演出されていた
その一方で、作品そのものが持つ喜劇としての面白さ(コメディ箇所)も、コミカルな言い方や台詞外の動き等で浮き上がらせて、しっかり笑える作りになっていた。
色々な場面で客席から笑い声が聞こえてきて(流石に下品すぎる場面では聞こえなかった)シェイクスピア好きとしてはとても嬉しかった。
シェイクスピアってなんか堅苦しそう…と感じている人に、「全然面白いんだよ!」と広く伝える役目を、鵜山仁氏の『終わりよければすべてよし』は見事に担ってくれたと思う。

 (以上。)
 


 昼公演終了後、余韻に浸りつつ近くのHUBで腹ごしらえ。
 シェイクスピアといえばイギリス!ということで、フィッシュアンドチップスを頼んだらタイミングが良かったのか揚げたてが来た。凄く美味しかった。
 ついでにお酒も一杯だけ。かつてHUBに来たら毎回頼んでいたアメリカンレモネードが販売しておらず、代わりにサングリアレモネードとして販売されていた。時の流れを感じつつも、美味しかったので良し。
 会場時間に着くと、沢山の人で賑わっていた。今日が『尺には尺を』の千秋楽なので、それを目当てに来ていた人も見受けられた、私にとってはシェイクスピア作品の中で一二を争うくらい好きなのがこの作品なので、本当に楽しみにしていた。そして、その期待を裏切らない素晴らしい舞台を見せてくれた。

『尺には尺を』(成立年:1604-5 ※パンフレット調べ)

あらすじ

 ウィーンの公爵ヴィンセンシオは、突然出立すると告げ、後事を代理アンジェロに託し旅に出る。だが実は、密かにウィーンに滞在したまま、アンジェロの統治を見届ける目的があった。というのも、ウィーンではこのところ風紀の乱れが著しく、謹厳実直なアンジェロが、法律に則りそれをどう処理するのか見定めようというのだ。
 そんな法律のなかに、結婚前の交渉を禁ずる姦淫罪があり、19年間一度も使われたことがなかった。アンジェロはその法律を行使し、婚姻前にジュリエットと関係を持ったクローディオに死刑の判決を下す。だがクローディオはジュリエットと正式な夫婦約束を交わしており、情状酌量の余地は十分にあったのだ。
 それを知ったクローディオの妹、修道尼見習いのイザベラは、兄の助命嘆願のためアンジェロの元を訪れる。兄のために懸命に命乞いをするイザベラの美しい姿に、アンジェロの理性は失われ、自分に体を許せば兄の命は助ける、という提案をする。それを聞いたイザベラはアンジェロの偽善を告発すると告げるのだが、彼は一笑に付し、「誰がそれを信じる?お前の真実は、私の虚偽には勝てぬ」とイザベラに嘯く。
 クローディオの命は?イザベラの貞節は?すべてはアンジェロの裁量に委ねられる。
(公式サイトhttps://www.nntt.jac.go.jp/play/shakespeare-dark-comedy/より引用)


感想

 素晴らしい舞台だった。鵜山演出での『尺には尺を』は、楽しみながらも考えさせられる、れっきとした喜劇として舞台で演じられていた。以下の感想では、舞台上で特に笑いが起きていた二つの場面について述べながら、改めてこの作品の魅力について考えてみたい。
 『尺には尺を』では、公爵代理となり権力を持つ立場になった男が、如何にして本分を忘れて権力と欲望に溺れていくかが詳らかに描かれている。このアンジェロという公爵代理がこの作品のヒールキャラなのだが、例に漏れず他の登場人物もそれぞれが問題を抱えている。


☆兄(犯罪者)妹(修道士見習い)の泥沼押し問答

 被害者として描かれるのは婚前交渉を行い死刑を宣告されたクローディオ、そして彼の妹のイザベラだ。今回の鵜山演出で最も笑い声が起きていたのは、この二人による「処女を捨てる/捨てない」「妹のために命を捨てる/捨てない」の押し問答だ。


① 妹が厳しすぎる

 この場面が何故こんなにも面白いのか。まず第一に、欲望を受ける側となる修道見習いのイザベラの宗教観が、観客からしたら戸惑ってしまうほどの厳しさであることが挙げられる。
 彼女はクローディオが逮捕されたまさにその日、修道院に見習いとして入院するのだが、その際にこんなことを言っている。

 「…もっと厳重な制限が/聖クレアを祖と仰ぐ修道院の者にはほしい…」(一幕四場)

 また、アンジェロに兄の助命嘆願に行く際も、最初はアンジェロに 「もし刑罰に値するものとして記録に残るような罪だけを罰して/その当の罪人を見逃すとすれば、私の職分はないのも同然だ。」(二幕二場)と素気なく断られている。その時の反応といえば、

 「いかにも正しいお裁きです、でも、なんと酷いお言葉でしょう!もう兄のことは諦めました。では、ごめんくださいまし。」(二幕二場)

 そう言って、ルーシオに止められなければアンジェロを止めるどころかあっさり引き下がろうとしていたのだ。

 つまりイザベラは、人間の罪を厳しく取り締まることについて言えば、アンジェロと意見が一致している
ただ、アンジェロはその身が一時的ではあるが権威となった際、自身の欲に抗うことができず、権力を傘にイザベラを手籠めにしようとする。
一方でイザベラはアンジェロのせいで自分の貞操が窮地に立たされ、きっと兄は「喜んで自分の命をなげ出してくれよう」(二幕四場)と信じてクローディオに会いに行く。
さて、妹にここまで信頼されている兄・クローディオの反応は如何に。


② 兄が平凡過ぎる

 そう、この場面が面白い理由、その第二のポイントは、まさにそのイザベラの兄であるクローディオにある。
彼は生活における人間の罪に対しては、ごくごく世俗的な感覚で接している。つまり彼は、積極的に道を踏み外そうとはしないが、かといって厳しく身を律したりもしない、典型的な一般市民だ

 思えば、クローディオの犯した罪も彼の世俗的感覚に起因するものと言える。
持参金を増やしたいという思惑で、夫婦約束を交わしつつ正式に籍を入れていなかったクローディオとその彼女のジュリエッタ。しかし、そうこうしている内にジュリエットは子どもを身籠ってしまう。
 ここで出てきた持参金の話も、夫婦約束を交わした後の婚前交渉も、当時としては珍しくない話である。
事実、一般階級になればなるほど相手の持参金は結婚を占う一つの指針であったし、結婚を決めた相手との間に非摘出子を設けてしまうことも、当時はままあったらしい。
クローディオの罪が実際に誰しも起こり得るものであるからこそ、彼が死刑を求刑されたことは当時の観客からすれば驚きと恐怖を喚起されたに違いない。

 そしてその罪がごくありふれたものであることが指し示す通り、クローディオはそのプレーンな世俗性において、観る者と感覚を共有している。
イザベラとの問答においての彼の言葉はそれを象徴している。

 「死ぬことは恐ろしいことだ。」
 「わたしを生かしておいてくれ。」(三幕一場)

イザベルにそう正直に告げるクローディオ。情けない、情けないが、観客はその情けなさに共感して笑ってしまう。仕方がない、人間の性なのだから。

そしてそんな兄に対し妹は、

「ね、思いきって死ねないの?」(三幕一場)

と真剣に諭す。怖いよ。クローディオが生への執着を見せれば

「お兄さんは卑怯者よ、人非人よ、信義も何も知らない破廉恥漢だわ!」
「どうか、死んでちょうだい!」(三幕一場)

と罵るイザベラははっきり言って常軌を逸していると言って過言ではない。
このあまりの発言に観客は、信じた家族にあっさり裏切られたことへの同情と、実の兄に対して流石に酷すぎると呆れる気持ちでまた笑う。

この場面は、イザベラとクローディオの対照性によって炙り出される、欲求と美徳に翻弄される人間の滑稽さが笑いの肝になっているのだ。


☆五幕一場のラストシーンの描き方に見る演出の「適当」感
① ヒーロー然としていた奴が急に男を出してきた!

 そして、鵜山演出においてこの場面と同じくらい笑いを取っていたのが、最後の公爵のイザベラへの求婚シーンだ。
ここは戯曲のラストシーンにあたる。公爵が見事アンジェロの不正を暴き、クローディオとジュリエッタの正式な結婚を認めた後、何故か唐突にイザベラに求婚をするのだ。

 それまで公爵は神父に身をやつし、アンジェロの不正を暴くため陰で暗躍していた。
その際にイザベラと何度か顔を合わせてはいるが、実はこの時も公爵は神父の姿を借りつつ、イザベラのことを

「あなたを美しくつくりたもうたおかたは、またあなたを善良な人間にも作りあげたもうたのです。」(三幕一場)

と、観客に「おや?」と思わせる発言を口にしている。
また、公爵のイザベラへの好意は、その姿を現した時にも表に現れている。

公爵      さ、ここへ、イザベラ。お前さんの修道僧は今では
        ごらんのとおりの公爵だ。あのときはお前さんの身のためを思い、
        世話もし聖職者としての相談にものってあげたが、
        今でもなおいろいろ面倒を見てやろうと思っている。

イザベラ    どうかお許しくださいまし。臣下の身でありながら、
        知らないとは申せ、君主であられる御前様に世話をやかせてしまって。

公爵      その心配は不要だ、イザベラ。今後とも自由に
        わたしにものを言うがよい。…
       (五幕一場、平井正穂訳)

 ここでの会話では、公爵がイザベラに対してかなり優しく話しかけている。
ここからゆっくりと恋愛に発展するというのであれば、筋は通っているように見えるが、しかし実際は公爵がイザベラに求婚をするのは、同じ五幕一場内での出来事である。
問題のシーンは以下の通り。公爵の計らいで、死刑を宣告されたはずのクローディオが実は生きていることが分かった時、公爵は以下のようにイザベラに求婚する。

 公爵      [イザベラに]もしこの男が兄に似ているようだったら、
         兄に免じてこの男を赦してやろう。これもお前を私が愛しているからだ。
         さ、お前の手をかしてくれ、そしてわたしの妻になると言ってくれ。…
         (五幕一場、平井正穂訳)

 ここから公爵は一人ひとり登場人物に言葉をかけてやるのだが、鵜山演出ではここでの公爵の声掛けが、まるで政治家が選挙区の挨拶にやってきた時のような、妙な白々しさが漂う話しぶりになっている。
そのあまりに堂々とした、誰がどう見てもよき君主と言いたくなるような振る舞いが、却ってイザベラへの急すぎる求婚を際立たせるのだ。

ここで観客が大笑いしたのは、それがあまりに突然であったことに加えて、それまで散々アンジェロを非難してきた公爵が、いくら正規の手続きを踏んでいるとは言え、結局お前もかいと言いたくなるような言動をしたからに他ならない
お前、権力を傘に着てイザベラの体を求めたアンジェロと、何が違うのだと。


② 公爵の求婚とイザベラの反応の納得感

 公爵     …イザベラさん、わたしはあなたの幸福につながるようなあることを申し込みたい。
        もし好意をもって受け入れてくだされば、わたしのものはあなたのものになり、
        あなたのものはわたしのものになるのだが。…
        (五幕一場、平井正穂訳)

 上記はこの戯曲の最後の台詞からの抜粋だが、特筆すべきは、ここにおいてイザベラの返答は台詞に起こされていない
そのため、イザベラが公爵の求婚に対しどんな反応を返したのかについては、演出が試される場面となっている。
公爵の手を取る、というのが定石と言われているが、過去にはイザベラが公爵の頬をビンタした、と解釈したカンパニーもあったらしい。

 今回の鵜山演出では、イザベラは最初に求婚を申し込まれた時、あまりに突然の求婚に何が起きたかよく分かっていないような素振りを見せていた。
そして、上記の台詞を言われた際も、公爵の手を取ることが出来ず、結局公爵が無理やり彼女の手を取っている。そこにあったのは公爵への好意でも嫌悪でもなく、戸惑いの感情

 私はこれまで『尺には尺を』のラストの演出について幾つか過去の例を目にした・耳にしたことがあったが、これが一番しっくりくる演出のように感じた。
 
 確かに、公爵はここまで兄の命を助けるために尽力してくれて、神父としてイザベラに優しく接してくれたが、だからといって結婚できるかは別の問題だ。
そして、残念ながらイザベラには拒否権など殆ど無い。既に両親が他界しているイザベラにとって、兄クローディオが彼女の唯一の家族。その家族が、自分の命を助けてくれた公爵の言うことにNOを告げるはずが無いのだ。

 鵜山演出における『尺には尺を』は、人間の愚かさを笑い飛ばすシェイクスピア戯曲の魅力を鮮やかに蘇らせた。
為政者もお偉方も聖職者も一般市民も、結局はそれぞれ自分の為に動いているという点で同じ穴の貉であることが、上記の二つの場面から読み取れる。
そして、それを知覚として認識するより先に、観客はその滑稽さに笑う。
笑いながら、今こうして感想を書いている私のように、やっぱ人間って愚かだけど面白いなと、この劇を思い出しながらふと思ってくれる人がいたらいいなと願っている。



参考文献
Shakespeare, William, 1564-1616. シェイクスピア全集 2 (喜劇 2). 東京: 筑摩書房, 1974a. Print.

新国立劇場運営財団営業部, ed. シェイクスピア、ダークコメディ交互上演 尺には尺を/終わりよければすべてよし., 2023. Print.